チェ・ゲバラ


チェ・ゲバラ

エルネスト・ゲバラ(Ernesto Guevara 1928年6月14日生)
 [キューバ・政治家/革命家]


 アルゼンチン生まれ。「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語で「やぁ」「おい」といった砕けた呼び掛けの言葉であり、ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していたことから、キューバ人たちが「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。

 1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれる。1948年、ブエノスアイレス大学医学部に入学、アレルギーの研究を志す。通常6年の課程を3年で終え、医師免許を取得。フアン・ペロン支配下で軍医になることを避け、カリーカことカルロス・フェレールとともにアルゼンチンを起つ。ボリビアで農地改革の現実を目撃。アルベンス社会主義政権下のグアテマラで出会ったペルー人社会主義者イルダ・ガデアの紹介で亡命キューバ人と知り合う。

 1954年、グアテマラのアルベンス政権がカスティージョ・アルマス大佐率いる軍部にクーデターで倒され、怒りとともにメキシコに亡命。1955年、イルダ・ガデアと結婚。翌年、長女イルディタ誕生。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。グランマ号でキューバに上陸、以後25ヶ月間におよぶゲリラ戦に従軍。

 1959年、バティスタが国外逃亡しキューバ革命成立。キューバの国立銀行総裁に就任。1965年、国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、コンゴでは一時的に闘争に参加。その後、コンゴ動乱から引き揚げ、チェコスロバキアのラードビーに3月から7月まで、チェコ情報機関に匿われ滞在する。

 1967年10月8日 バジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。

 政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡したという。最期の言葉は、射殺を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」である。

 ゲバラの生涯と思想は、反米的思想を持つ西側の若者や、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権・独裁政権下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。革命の英雄として高い評価を受けるある一方、混乱や戦闘を引き起こした当事者として忌避する動きもある。故郷のアルゼンチンの都市ロサリオの公園にはゲバラの銅像が建立されているが、2017年にはゲバラに批判的な人々により銅像撤去に向けた署名活動も行われた。

 1967年10月9日死去(享年39)





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